カテゴリー「表現の洞窟」の記事

対象に付随する対象以外の要素

ヤネトロニカというユニットの音源が出来上がりつつあります。

音源はMy Spaceにupしているので聴いて下さい。

お盆休みに何日か自宅にこもって、ほぼぶっとおしでミックスやマスタリングの作業をやってました。技術的にはまだまだですが、色んな発見がありました。特にEQについて。

Sound & Recording Magazineをよく買って読んでます。
昔は特集を読んで音についてのことがなんとなく分かった気になってました。
本当は何も分からず感覚でやってました。

でも、最近書いてることの意味がようやく分かるようになってきて、それを応用できるようになってきました。

継続は力なりとはよく言ったもんです。

あと、音楽を作るうえで、皮膚感覚は忘れたくない。

それは、生のピアノを弾いた音以外の要素だったり、ミックスをする時のある種の生生しさだったり、何かが終わりそうなはかなさや弱さであったり。

上手く言えませんが、対象に付随する対象以外の要素に注目して、それを丁寧に拾いたいなと思います。

それが、たとえ取るに足らないものであったとしても。

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想像力の欠如もしくは無知

文化遺産への落書きが問題になっているとTVでやっていた。

これは貴重なものに自らの印を残したいという人の本能的な衝動よりも、想像力の欠如が起因している。

つまり文化遺産に落書きをすると刑事上的に罰せられるという縛りではなく、目の前の文化遺産がいかに長い年月と苦労と知恵、ものによっては偶然的な神秘性によって形作られたものであるかを頭に思い描けないからだ。

この問題は何も文化遺産という歴史的に大きなものだけが対象ではなく、例えばゲームソフト無料でDLして遊べるマジコンやWinnyを愛用することにも同じことが起因している。

マジコンに関しては、発売してからすぐもしくは発売前に誰かがネットにソフトを違法にuploadしそれを不特定多数のユーザーがDLする。

プログラマーや他のスタッフが労働をして制作した商品をユーザーは何の対価も支払わず手に入れるということは、それらのスタッフは無償でソフトを制作することになるので、やがてその会社の売上げや利益は低減し、やがてはスタッフへの給料を支払うことが不可能になる。そうして優秀なプログラマーは仕事をできなくなる。

Winnyもまったく同じだ。著作権の問題も重大だがその不純なスパイラルが非常に悪質である。

それらを平気で使用するユーザーは周りにいるが、彼らを含めてそれを扱う全ての人は人が一生懸命に作り出したものに対して何の尊敬の念も持たず、そしてその行為を続けることによって結局は優秀な作品が世に出回らなくなるというヴィジョンをイメージできないのだろう。

僕はたまたま音楽を作っている。たった4,5分程度の作品を作るのに試行錯誤を繰り返し何十時間もかけて完成させる。なので、ジャンルは違えても何らかの作品を作る方々の作品に対する苦労や気持ちは多少なりとも理解できるし、そこに尊敬の念も自然に生じる。

別に音楽を作っていなくても、料理を作るとか、学校のイベントで催しに参加するとか、苦労が多少なりともわかる機会は誰にでも自然的にまた平等にある。

問題になっている行為を行う人達はそういう想像力が究極に欠如しているかもしくは無知なのだろうと思えて仕方ない。

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memo

<memo>

音楽を作る時に

漠然とした概念から音楽から作るのではなく、はっきりとした対象に調和するように作るやり方が、面白いんじゃないかなと。

近いイメージではサウンドトラックのような形態。

音楽が一人歩きするのではなく、その場所、その雰囲気、そこでの他の表現物に調和する形で、その一つとして音楽が存在していること。

ひとつの空間、場所、雰囲気で表現されている作品がいくつかあったとして、その全てが、その空間でひとつのテーマを共有し合いそれぞれが相互に調和し合い、また相乗し合って存在している状態。

規模の大小に関わらず(できれば小さい方が良い)調和、共有、相乗を作品同士で掛け合わせること。

先日訪れた京都の岩倉実相院で、庭園を眺めながら頂いたお抹茶。

岩倉実相院の空間(雰囲気)+庭園+お抹茶+刻々と移り行く陽の光

それぞれが単体で存在する時とは違い、調和+共有+相乗によって価値や観点が混ざり合い存在していることが実感できる。

もし上記の空間に音楽が入る余地があるのなら、どうするか。

単純に和楽器を入れる事ではなく、「仕掛ける」を伴い、新しい観点を創り出さなければ意味がない。

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音楽を作る→音源化する→ライブハウスやカフェでライブするありふれて惰性化した方法ではなく、その方法をそれでいいのかと疑って、視点を変えてみる。

表現を届ける先はどこなのか。

ピンスポットで打つ。

色んな場所に色んな方法で「仕掛け」を作る.。

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アルゼンチンババア

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吉本ばななさん原作のアルゼンチンババアを観ました。以前からタイトルがどうにも気になってました。 内容は、母を突然亡くした高校生のみつ子が主人公で、父親がそのショックで消えてしまうと。その居所を突き止めると草が生い茂った中に遺跡のように建つアルゼンチンババアと言われているユリの家にいる。それで物語は進んでいくんですが、最後の方で、娘と父親の心情を互いに打ち明ける場面があるのですが、思わず泣きそうになりました。なんとかぐっとこらえて半泣きで堰止めしましたが、やばかったです。

セリフよりも、役者の表情から伝わるものが多いのでそうなるんですが、言葉はやっぱり付加価値だと思います。本当の価値はその後ろにあります。だから良い映画は、セリフが少なくて当然だと勝手に思ってます。

音楽も音自体に説得力が無くて、その反対にそれ以外の要素に関してそれらの価値を増やすと、どうでもいいものになってしまうと思います。かといって、音だけにエネルギーが集中すると、面白さに欠けるので、難しいと思います。

映画の話にもどって。アルゼンチンババア(しかしすごいタイトルだ。インパクトある)のユリのセリフに「人の命は自分のためだけにあるんじゃないの」というのがあったんですが、自分の中の自暴自棄的なかけらにぐさっと刺さりました。そんなに、強烈な言葉ではないのに、劇中の役のフィルターを通すと、それなりに力や説得力を持つので不思議です。だから、昔、読むのが禁止された文学があったんだと腑に落ちます。

生身の人間が吐くセリフより、空想の人物が口にする言葉の方が、妙に心に入ってくるなんて、本当に不思議です。

映画を観終わって(ひとりで観賞したんですが)GradaのCDを探しに茶屋町NUのタワレコへ行きました。Grada(グラーダ)はアイリッシュのバンドで、ネットで試聴して一目ぼれしました。こういうのがあったらかっこいいだろうなあと思っているアレンジの曲があったのがきっかけです。

店には案の定在庫がなくて、店員さんに丸ビルの方の在庫も調べてもらったんですが、なかったので、ロフトのCD屋に行きました。現地に着くとすっかり無印良品にフロア全部が変っていて無駄足でしたが、友達の神ちゃんから連絡があり、帰ってから再度連絡しようと思ったら「今ロフトの前にいるんやけど」と。(どんな偶然なんだ)

最近の企画なんかを立話して、明日に持ち越しました。

今度の神ちゃんのDICEでのライブにちょこっと参加させてもらう予定になりました。ちょこっとと言っても、やることはいっぱいあって、でも自分が本当にやりたい音楽の形のひとつなので、テンション上がります。

ちょっと前に共作した曲(まず僕が詩を書いて、それに神ちゃん(神高雅史君)がメロディーを付けて、それを聴いて僕がリズムトラックを作り、楽器パートを考え…と言う風な具合に進行させていきます)もライブで演奏予定です。

そういうこともあって今日は本当に久しぶりに12時間(ご飯の時間を入れて)音楽作ってました。大学の頃にこもって制作してた時を思い出します。

ライブは一週間後!なので、それくらいやらないと間に合いません(汗)手探りの所もあるし…。

踏ん張って漂って、ふわふわと行きます。(なんちゅう締めや)

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博士1

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meditation of days

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It's important to try to change the destiny in your lifetime.


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金太郎飴はどこを切っても本質

『スーザン・ソンタグから始まる/ラディカルな意志の彼方へ』という本を偶然見つけて買いました。以前からスーザン・ソンタグに興味がありその考え方をもっと知りたかったのが動機です。

内容は京都造形芸術大学に新しく設立された後藤繁雄さんがセンター長を務める「芸術編集研究センター」の設立記念計画の一環として企画されたシンポジウムについてです。

ソンタグは作家であり、批評家、劇作家、演出家、映画監督の顔も持っています。彼女の代表作「反解釈」を読みましたが、その内容はとても洞察的で思慮深いものです。彼女は自分の表現に指針を与えてくれたとても重要な人物のひとりです。しかしながら、彼女は2004年の末にこの世を去りました。

この本に書かれているシンポジウムは彼女を追悼するという意味も含みながら、パネリストの浅田彰さん、木幡和枝さん、平野共余子さん、アメリア・アレナスさん、福のり子さんがソンタグについて話すというものです。

その中で、木幡さんが話されたことがとても印象に残りました。

「STYLE」。

スタイルというのは、決して内容の付属物ではないということを話されています。

「彼女は極言すれば「スタイル」は内容をあらわすという考えの持ち主でしたので、極めてスタイルにこだわりました。

逆に言えば、何か入れ物を見て、中身を見ないとわからないわ、という人ではなくて、入れ物の中に内容のヒントがたくさんつまっていると考える人でした。内容にこだわっている人が、その外側の形にこだわらないわけがない。(中略)内容が非常に独自であるならば、入れ物もそのことを伝えていくものでなければおかしい。」

表現活動をしている一人として、このことに共感するとともに、コンセプティズム(概念主義)に重きを置く自分の考え方の支えになりました。

ひとりの表現は突き詰めて考えていくと、発言から作品、文章、振る舞いなど微々たる物にいたるまで作者の意図やコンセプトを反映したものでなければならない。逆に考えると、たとえ作品を見なくともそれに付随するものを見たのなら、作者の本質を推察することができるということだと思います。

簡単に言うとどこを切っても同じ絵が見える金太郎飴と同じです。

全体から一部を洞察し、一部から全体を洞察するということ。

本質的なことなので非常に困難な思考ですが、表現をやっている人にとってこれを無視することは、本質=自分のやろうとしている表現の根源を無視することと同義になると思います。

表現活動を続けるその原動力はそれぞれに違いますが、根底のところは自分自身ではコントロールすることができない本質的な意志(≒狂気)が働いているという点では同じだと思います。

そしてどうしても表現を行わざるをえないその本質的でコントロールできない意志の断片が、形を変えて作品に付随するすべての事に置き換わり、結果的には作者と作品と付加物の統一性を生むことになると思います。

そういう点では、作者はその作品に対して、もしくは他の発言に注意しなければならないし、音楽なら演奏スタイルにも十分に注意する必要が出てきます。

社会的効力のある付加価値がほとんどないと言っても過言ではないインディーズのアーティストは、たとえ多くのライブをやっていたとしても、そのライブをはじめて聴く人がいて、偶然にもそのライブの質が悪いものであったとするならば、一度見たライブからそのアーティストのレベルを判断されてもおかしくはありません。

社会の中でのあらゆる表現は、自分もしくは他人が判断するしないに関係なく、作者の本質が形を変えたものと同じであると思います。本質を抽出したり、見抜いたりする力は人それぞれですが、本質が伴わない表現は皆無だと考えています。

芸術表現の場合は特に。

それではまた。

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和声主義における建築ピアノ

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雲州堂にて『daydremer vol.3』にお越しいただきまし
たみなさま、CDをお買い上げいただきました方々、共演者のみなさま、スタッフの方々、そして主催者の健吉さん、副主催者のイクラちゃん、本当にありがとうございました。

ピアノソロでのライブは一年半以上ぶりでした。しかもインストのアーティストばかりが出演するライブはもちろん初めてだったので、いつになく新鮮でした。

インストを愛するみなさんに感謝して。

それでは今回のセットリスト。

1. じゃがいもを食べる人たち

MC

2. 僕らが海へ渡る日
3. プランクトンの日記

MC

4. Inisheer (guest:Shizuku Kawahara on tin whistle of GFM)

MC

5. eco



1曲目「じゃがいもを食べる人たち」は敬愛するオランダの画家V・ヴァン・ゴッホの同名の作品から、それに触発されて書いた曲です。労働者を讃える音楽。

2曲目「僕らが海へ渡る日」はこの日のために書いた新曲です。葛藤や矛盾の先にもいつか希望が開ける時が必ずやってくるんだという願いと信念を込めた音楽です。ちなみにモチーフは大亀とクジラです。

3曲目「プランクトンの日記」は古代からプランクトンが今もこの先も日記を書いていたら面白いんではないかなというコンセプトです。プランクトンの擬人化。中間部のアドリブの部分が特徴的です。

4曲目の「Inisheer」はアイリッシュの伝統音楽。17世紀頃に作られたと聞きました。この曲だけcappuccinoの雫にウィッスルを吹いてもらいました。Bメロのコード進行をマイナー調にしたので知っている人にとっては違和感があったかも知れません。僕はマイナー調の方がクールなのでぐっと来るのですが…。

5曲目「eco」思いやりとゆとりと…人が人らしくということがコンセプトです。主題のメロディーが冒頭と最後に出てきますが、人が心にゆとりを持つと、世界が広がっていくんだということを表現しました。

リハーサルの時にシールドに起因するノイズの問題、音質の問題がありましたが、なんとかクリアでき本番に臨むことが出来ました。やはりカナレのケーブルは今ひとつ信用に欠けると痛感させられました。健吉さんが使われていた有名なモンスターケーブルを早急に買うべきだと心底思ったわけであります。

それにしてもインスト限定イベントの雰囲気はいつものライブと全く違うものでした。いつものライブとはいわゆる歌モノで、言葉があるというのが前提なわけですが、インストは音だけで表現しないといけないわけで、自ずとメロディーや構成、アレンジ、展開、奏法などに趣向を凝らす必要が出てきます。

今回ギターの方が3組出演されましたが、ギターの奏法がこれほど多くあるのかということに改めて驚かされました。そして楽曲の良さ、質の高さはさることながら、何よりもその奏法が超越技巧の域に達しているのがうかがえます。

風景がパノラマに広がっていくMelrynさんの音楽。

MCからすでにリスナーの右脳を刺激し、映画のような物語性にとんだ音楽を奏でる居倉 健さん。

雲州堂の暖色系の照明のようにいつのまにか心を落ち着かせてくれる音色、リズム、抑揚を漂わせたわたなべ ゆうさんの音楽。

歌を弾き語るギタースタイルとは完全に一線を画す3者のギタープレイはまさに右脳にとってこれほど効果的なサプリメントはないとも言えると感じました。

ところで、

ギターとピアノはある意味相反関係にあって、それはどういうことかというと、ギターは音域を捨てる代わりに奏法を発達させてきて、一方ピアノは奏法を捨てる代わりにハーモニー(和声)を発達させてきたということと言えると思います。

3組のギタリストの方々の演奏の中にはそのアーティストをアーティストたらしめる独特の奏法が随所で登場します。つまり奏法がアレンジの一部と化している点がとても興味深いわけです。一方、今回、ピアノは僕だけだったのですが、ピアノの欠点は一度鍵盤を打鍵するとその音色を変化させることが出来ないわけで、自ずと和声の展開いわゆるハーモニー主義にならざるを得ない部分があります。ピアノの歴史はハーモニーの歴史であるとも言えるのではないかなと思いました。

僕が勝手に提唱している建築ピアノというのはまさに和声を建築化して考えることにあります。

しかし、シンセサイザーが登場し発達してきた現在、キーボーディスは音色変化も加えての独自の奏法を手に入れることができたわけです。

イベント最後に登場した健吉さんはあらゆる奏法を駆使しながらの圧巻な演奏をされてました。ピアノを超える音域、ハーモニーをDNAに持ちながら、時間の流れの中で音色を意図的に変化させられるシンセサイザーは、出し尽くされたピアノのあらゆる要素をまだ進化させることができる楽器だと言えると思います。

僕自身シンセサイザーの魅力にはまり、並々ならぬこだわりもあります。しかしながら、それでもピアノで作曲、演奏する時は、ハーモニーにこだわりたいと思っています。ある意味に置いて時代錯誤的な面は否めませんが…。

強引に絵画的に例えると、色彩を追求するか、水墨画か。違うかな。(笑)


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東京出張 『沈思考帰宅』篇

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作品そのものではなく、その作品の概念や意味に価値を見出す欧米のartに対する考え方を構造的に知って見事に考えさせられました。

作品の価値は、欧米ではいかに今までになく新しいものかで決まり、日本ではいかに模倣できるかで決まるのであって両者は全く違うと。

歴史を見てもこれは明らかで特に近代以降の日本は西洋のものを真似ることで発展してきた、まさに模倣の歴史。

だから日本人は西洋人が発明したものを発展さすことに関しては世界でも飛びぬけた技術を相対的に持っている。

音楽に関して痛切に感じることは、密かに模倣的なものの方がリスナーの心を掴みやすいし、理解できないものには見向きもしない。

しかし、理解できないものに世界の基準で評価(安全保障)がつけられると一転して新しいものとして認知され受け入れられる。

有名な例ではYMOがデヴューしたての頃、自国では全く評価されなかったが、アメリカでのライブの成功を土産に帰ると、評価されるどころか社会現象になるまでになった。

欧米ではartとしての音楽と娯楽としての音楽の線引きがあって、日本ではそれが曖昧であって、理解できない音楽もオリコンを意識する音楽もインディーズの音楽も何もかも全部いっしょの枠に入れられて一般的には考えられている。

「郷に入っては郷に従え」のわが国の先人の教えを無視することはできないが、しかしながら、出る杭は打たれ、コンセプトが奇抜なものは無視されるという島国思想には賛成できない。

それを突き詰めれば結局は共産主義になって、人を個人として扱うようにはならないから。

こういうことを書くこと自体がもうすでに日本主義に反している行為だけど、ただartに関わるすべての分野は模倣からかけ離れて考えて、クリエイトして欲しいと思うわけです。

作品の概念を楽しむというのは、僕にとっては普通のことだけど、日本的ではない。日本的なのは流行を楽しむということ。流行に自分がいかに関わっているかがその人にとって重要であって、他人と違うことなんていかに恐怖で意味のないことか。

他人と違う考え方をもって有限実行することは本当にその人自身に意味があって、称えられるに値することなんです。遠吠えにしか聞こえないかもしれませんが。

チェコ共和国の文化のひとつに有名なパペットアニメーションがあり、少し前に日本でもブームになって評価されたんだけど、チェコが植民地時代にパペットアニメーションを作ること自体を禁止され弾圧されていた中でもひっそりとそれを作り続ける人たちがいて、それがパペットの歴史を止めることなく現在も続く潮流となりました。

そのことはクリエイトの分野においてとても素晴らしいことだと思うのです。

戦後の日本は節操もなくアメリカの文化を躊躇なく取り入れたその結果が、よくあるアイデンティティがどうだとかの議論を引き起こす結果になっている。

過去を単純に否定する気はないけれど、そこから何を考えるかが重要だと思うわけです。

コラージュ文化でも何でもいいのだけど、確信犯的に模倣をよしとすることを周囲が黙認してしまう空洞文化だけは後世に存続して欲しくない。

それだけです。

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星のような物語 悠久の時間の流れ

僕にとっては「目に見えない世界の観方」を教えてくれた貴重な方です。

星のような物語

『星野道夫 展』

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大丸ミュージアム・梅田で開催されている没後10年の集大成的な展覧会に行って参りました。

星野さんは写真家でありエッセイストでもありますが、写真の横に小さく短く書き添えられる文章がとても詩的で、その一言でその横に立てかけられている写真の観方が変わる面白さがあります。

星野さんの言葉で特に好きなのが、「この世には人が暮らしている世界とはまったく違う動物達による悠久の自然の世界があり、その世界を日々の中で想像すること。それを想像するともっと大きな世界を知ることになり、心が遠くに開かれていく」。

そう考えると、共生という言葉が感覚的に分かる気がします。今こうしている時に、渡り鳥が大海原を越え、ザトウクジラが尾ひれを海面にばたつかせている...。これが現実として起こっていると。

確かに違う時間が流れてはいるんだけれども、世界は同じであるという当たり前のことを人だけの行動範囲の中で生きているといつの間にか忘れてしまいます。

何もかもがつながって食物連鎖という形で命が循環している。

数ある中でも特に印象に残った写真がひとつあって、それは一頭のクジラが氷河に閉じ込められている写真。その氷河から人がクジラを助けたいばかりに、なんとかして救出方法を考えるわけだけれども、現地に昔から住む人に言わせると、クジラが氷河に閉じ込められてここまで運ばれてきたら、この周辺に生息するクマ達にとっては何日分もの食料に相当し飢えを免れるので、まさに海からの贈り物だという。

人はそれをクマ達の餌になるというクジラの運命を変えて、他方クマ達の食料までも利己的な理由で奪うことになるわけです。

今までそんなに気にかけてこなかったわけではないけれど、そもそも人の文明の歴史は自然界の運命を人間にとって都合の良い様に変えてきた。それは文明を築く上では本能的に仕方なかったともとれるが、利己的な発展の限界がはっきりと見えた現在、未だに自然の運命を変えることが人にとっても自然界にとっても果たしてプラスになるのか疑問です。

文明の恩恵を日々存分に享受している僕らは行動する以前にそのことを常に気にかけて、忘れてはならないと思う。戦争をしないと宣言することよりも戦争の悲惨さを忘れてはいけないことと同じ。

アラスカへは一度も行ったことがないけれど、人は間違いなく自然の生物であるということを、写真を通して呼び覚ましてくれる星野さんは非常に尊い。

オーロラの光はこういう色で、白熊の親子はこういう風にじゃれあい、野性の中でこういう風にくつろぎ、鷲の緊張する瞬間を教えてくれて、カリブーの群れが大地の鼓動となる時をとらえ、アラスカで生きる人たちの純朴なそれでいて野生を忘れていない厳しくやわらかい表情を、星野さんはすぐそこにあることのように教えてくれた気がしました。

写真からは、絶対的なものは伝わりません。それは観た人がやはりそれぞれに自分の今に当てはめて解釈するべきであると思います。

今が変われば、写真の見方も変わります。ただ、悠久に流れる世界を心のどこかに持って、それに逆らわずに生きていればそれは絶対に間違った生き方ではないと強く思いました。


星野さんに悠久の感謝を。

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東京出張 『明日の神話』篇

多作でのライブから一夜明け、早速東京ウォークを始めました。とりあえず汐留に向います。
『明日の神話』を観る為に。実は東京に来たかった理由はライブと同じくらいの比重で岡本太郎の大作をぜがひにでも心に刻みたかったというのもあるわけです。

慣れた振りして山手線を使い新橋駅から日テレまですぐでした。

団体でスタッフの方から作品の概要の説明を受けいざ壇上にあがり、両目を見開いて『明日の神話』を凝視しました。

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高さ5m、幅30m、厚さ数センチのコンクリに原爆が落ちた瞬間を描いた芸術。
太陽の塔とほぼ同時期に作られたこの作品からは、やはり岡本太郎の反骨精神が感じられました。
しかし、作品の規模に驚かされるも、鑑賞前に概要を説明されるも、何かまだピンときませんでした。感動の種類が違います。

感動には2種類あって、ひとつはその場で瞬時に心動かされるものと、もうひとつは時間の経過と共に、ゆっくりと心が動かされるものです。

『明日の神話』は後者に値しました。

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原爆の落ちる瞬間中央で爆風に引き裂かれるガイコツの顔はかすかに笑い、その炎は中央少し左から右にかけて猛威を振るい、周囲の人々、動物をも焼きつくす。

しかし、その魂は左へと流れ、新たなる生へと生まれ変わろうとする。生命のダイナミズム。輪廻。

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逆境にたたされた時こそ、生命が燃え上がり、希望が生まれる時なんだと教えてくれているような錯覚に捉われました。岡本太郎ならではの叫びに叱られたような...。

「リスクのないことを、なにぬるま湯に使ってもがいてんだ、おまえは!そんなものは芸術でも表現でもない!」と聴こえて来るから、岡本太郎の作品に触れるといつも頭を打たれる。

言い返せないから、また頭を打つ。悔しい気持ちではなく、これだけ表現してもいいのかと思わせてくれるまさに表現に置いて珠玉のエネルギーをもらえるわけです。

チャッチコピーが「Be Taro!」。本当にそのとおり!。もっと表現しきっていいと促してくれていると解釈した時、体が琴線が未来が波状に震えました。

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一時はその行方さえ分からなくなった作品だけれど、敏子さんの尽力、熱意に多くの協力が集まり、慎重に復元され、こうして目の前で多くの人にそれぞれの解釈を与えてくれる強い作品に出会えたことに心から感謝しました。ふと横を見ると雫が泣いていた。え、感受性の許容範囲を超えたか...。

この先の将来にいくつもの困難があるのは間違いないわけですが、その場面に出くわした時にこの日のこの爆発を記憶の中から引用して抵抗できればと思っています。

生命を燃やすと、すべてのものが生き生きとするに違いない。

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東京出張 『楽曲』篇

東京で活動するアーティストと大阪で活動するアーティストの一番大きな違い(相対的なものなので注意してください)はおそらく楽曲の中の「しかけ」にどれくらい気を使っているかどうかだと思います。

自分が言うのもなんですが、技術や実力はさほど変わらないと思います。逆に考えると本気でやっている人は場所に関係なくみんな上手いわけです。

アレンジにおける「しかけ」。

弾き語りの人は唄以外の部分、例えばイントロや間奏にものすごく気を使っていると感じました。

言葉を変えると、聴いている人をいかに飽きさせないか。

もちろん唄の部分に置いても「裏メロ」は「裏ハーモニー」は楽曲作りに置いて必須であるかのように感じることができます。

東京はインディーズアーティストの数が半端ではなく、その中で他と差別化を図ろうとすれば、楽曲そのものをいかに魅力的なもの、オンリーワン的(オリジナリティではない)にするかが問われます。それと比例して、リスナーの方も耳が肥え、退屈なアレンジにはぐっとこないようになります。

これを突き詰めていくとお客さんを増やすという意味に置いて結局は今流行のJ-POPのエッセンスを踏襲することになるのですが、それが東京という特殊な環境においては知らぬ間に肯定されていくわけです。

このことは東京以外を否定することではなく、創作することに置いてアーティストはいったい何に「重き」を置くかを書いています。

2日目の街散策でも肌で感じましたが、東京は街のいたるところにセンス、アートの仕掛けが溢れ、その中で暮らしている人たちはその刺激を知らず知らずに享受し、そのうちに中途半端な刺激では琴線が触れず、より琴線を振るわせてくれる刺激を求めるようになります。

その結果あわゆるものの創造と破壊が繰り返され、その波紋が少なからずインディーズの音楽にさえも影響を与えていると考えることができます。

そう考えると東京だけで活動することが「創作」において完全にプラスにならないと思えました。効率や合理性と言う点では、東京はこの上なく魅力的な場所に違いないわけですが、自分との対話という点ではあまりにも急かされる場所、環境、仕組みであると。

世界的に考えるとアートの拠点であるNYの対極にある北欧の環境の縮図のような、東京と大阪(誇張しすぎの面あり)。

東京で活動するアーティストの意識を知り、そこから一線をおいて創作、活動すること。これが今の等身大ではなかろうかと思いました。



東京を決定的なものにしない自分が大阪で活動する無意識なる意味がなんとなく分かった夜でした。

本番前の黙打。

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前衛

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『アヴァンギャルド(前衛)という言葉は、もともと革命家の言葉である。変革の時代には、自覚した知識人が大衆運動の前衛となって、未来を見透し、実践を推進しなければならない。芸術家は芸術の変革をもって、大衆の意識を促すべきである。

こういう言わば、''文化革命''の思想が、アヴァンギャルド芸術思想と呼ばれた。これは特にコミュニストの用語であった。そこで当然、意識のつまり、発想の百八十度転換を要求される。ブルジョア意識からプロレタリア意識へと言えば、ミもフタもなくなってしまうが、とにかく、まず出発点を百八十度転換する必要があると考えられた。』

(安部公房著 新潮社 「R62号の発明・鉛の卵」解説より引用)

前衛という言葉をなんとなく異質な極致の価値という風にとても曖昧に今まで捉えていたところ、上記の文章に出会いました。由来が革命の言葉であったとは驚きです。

時代のうねりが革命ならそのうねりは社会の様々な分野に影響を及ぼし、やがてそれまでの価値観を転覆させるような新しく強い価値観が出現し、認められるのだろうか?

戦後の日本ではそういう状況が列島を覆っていたのだろうか?とても興味深いことです。

時代が混乱している時には皮肉にも新しいものが生まれやすいというのは歴史を見ると分かるが、その時代に生きている人にとっては、信じる術を何に託そうかと思い悩む混沌とした時期でもあるので、一概に価値転換が正しいとは言い切れないと思うが、長期的に考えると、それは社会の新陳代謝とも捉える事ができる。

新陳代謝が定期的に行われる体質は、健康である。

勝手に腑に落としました。

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ゴッホに学ぶ

画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホについての本を読み返していたら、目から鱗が落ちた。

少しその箇所を引用。

「もし色彩がそのような表現力を持っているものだとしたら、外界の再現ということは、二義的な役割でしかなくなるだろう。
ひまわりを再現する為に黄色い絵具を画面に並べるのではなく、黄色の輝きを高らかに響かせる為に、画家はひまわりというモティーフを選ぶのである。それは考え方から言えば、ほとんど抽象絵画の理論に近いといってもよい。」

冒頭の「そのような表現」とは画家の心の中の世界、人間の魂の世界で、言い換えると、情念や悲涙など無数にある人の感情。

なるほど、眩しいほど鮮やかな黄色を描きたいがために、その黄色を媒体とするひまわりを描かざるをえないと!

ゴッホに対する捉え方が180度変わった。なぜ今までそれに気付かなかったか...なんとも恥ずかしい。

これを踏まえて他の絵を観るのなら、例えば、どうにもできない芸術家の葛藤を描きたいがために、自分の自画像を混沌とするほどの渦巻きを背にして描いたのか。または、滲み出すほどの狂気を糸杉に垣間見たのか。

そういえば、夜のカフェテラスに見られる黄色と青との補色の関係は前者が理性で後者が狂気を表し、その絵は今にも何かが起こりそうな不気味さを醸し出している。まさに理性と狂気の葛藤をそしてまたそれは共存かもしれないが、それを描きたいがために夜のカフェテラスの光と影はモティーフにもってこいだったのかも知れない!

黄色と青の理性と狂気の関係は、ゴッホの晩年になるとそれまであまり使われなかった緑色、つまり黄色と青が混ざり合うと出現する色!、つまり、これが最も興味深いのだが、理性と狂気が混ざり合ったもの、仮にそれを無垢なる極致とすると、その無垢なる極致、すべてに対して開かれている心を、彼が入院していた病院の庭の緑に垣間見たのかもしれない。そう考えると、どこにでもありそうな「庭」を描いた理由がはっきりと読み取れる。

不運なことに筆者は生粋の画家ではないために、視覚を超越した心の目で外界を見通し、色彩に還元するということはできないが、幸運なことに音で何かを表現する立場に現在立っている。

このゴッホの色彩に対する考え方をもし音楽に取り入れるとするのなら、例えば、悠久の間変わらずにたたずむ部屋の中から、庭に落ちる無数の雨音をふすま越しに聴いたその循環音を、なんとかピアノの音で表現できないかということになるのだろうか?

それほど単純ではないとは思うが、ある景色から音が自然と誘発されるという現象、幻覚に今まで何度が会ってきたことがあるので、まんざらゴッホのそれと全く違うとも言い切れないと思うのだが...。

いやはや、音楽をやっているとはいえ、音楽以外の表現から教えられることはなんと多いことか!


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塵を積んでは

8月13日のミノヤライブにむけての練習を汗流してやっているんだけど、これがいつもよりも牛歩的にしか進まない状態。

新曲や過去の曲の新アレンジが今まで以上に過酷(笑;)というのが理由。

分かっていることだけど、新曲や過去の曲のアレンジを真剣にリ・アレンジする時は必ず演奏技術が追いつかない。

まず頭の中でほとんど考えてしまうので当たり前の話ですが、それにしても自分の無意識は肉体に過酷な試練を与えることをやめない。

以前に誰かのテレビインタヴューで、「いつも自分が今出来る事よりも、少し難しいことをするようにしています」というのを耳にしたことがあります。

それが正論で理にかなっていることは十分理解できるのだが、これを真剣に持続することほど過酷なことはない。

音楽における「ライブ」というものは、表現の中でも「再現芸術」分類される。最低でもリハーサルと同じクオリティの表現を本番で再現しなければならない。これを無視して以前と同じ演出の元で同じようなパフォーマンスを繰り返してもいいのだが、僕自身それをしてしまうと、余力を残した上での公の場所においての表現となるので、そうなった場合それは全く無意味なものになり、かつ自己満足で音楽そのものをやっていることを承認してしまうことになりかねないので、この選択肢は存在しないことになる。

というわけで、do to doの精神を引用。つまり、やるからには「やる」ということで、本番までになるべく多くの塵を積んでいこうと思い喝を入れるしかない。

唄の川原は本番に間に合うのかというのが口癖になっていて、2人ともA型という神経質な性格が作用していることもあり、練習の蟻地獄にはまっているともとれなくはないが、現状では楽観的なものは何一つないのです。



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表現の足枷 不自由の自由

Sample15-s.jpgやはり、僕にとって音楽を作る時の根源的な動力は「イメージ」にあると思います。それも、忘れる事のできない強いイメージ。カメラのフラッシュが光った時に一瞬時間が止まって映し出される一枚の写真のようなものなのではないかなと。

音楽のひとつの形式で「ミニマルミュージック」というのがありますが、僕はその精神に深く影響を受けました。

それはループを基調とするテクノミュージックから公に認識された言葉だと思いますが、よく考えると、大昔のクラシックも実はミニマルミュージックの方法論を踏襲しているとも受け取れます。時代の流れが逆ですが。

有名なベートーベンの「運命」は冒頭に登場する印象的なフレーズを元にして、その後アレンジを駆使しながら最後まで展開していきます。

「印象的なひとつの素材をいかに展開させるか」。これこそ、作曲家の技量と個性が真に表される方法のひとつではないかなと思います。

僕が尊敬する教授やラヴェルもそこに美を見出しているアーティストだと言えます。

このことをもっと深く考えると、表現という行為は、表現者がいかに制限、抑制された中で作品を生み出せるかが鍵だと気付かされます。

制限された中で必死に表現活動を行うと、本当に言いたい事がぶれることはないし、その人の本質が見えると考えています。

そして、その制限を課すその仕方にまずその人の個性が表れ、そこがまず表現者としての一歩でまた面白いところなんではないでしょうか。

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no control

芸術が心の底から好きです。


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理性の手を離れた人の狂気の部分が表現を媒体にして、その人の体から外に出ているのを見ると、鳥肌が立ちます。

抑制された自由の中で、お金や利害やその他の社会的要素に左右されない環境で、その人の狂気の部分が浮かびだす表現に出会うと鳥肌が立ちます。

僕は小心者なので、社会の大きなシステムの中で、なんとかもがいてしか表現できないと自覚しています。

V.ゴッホ、J.M.バスキア、アンドレ・ブルトン、A.ガウディ、岡本太郎、ピカソ、吉原治良...。

すばらしい狂気を作品の中に凝縮できるアーティストたち。

自分が生きている間は、いつの時も彼らの思想を精神を少しでも汲み取りたい。

それを自分の表現や作品に生かすといった蛇足があっても。

年々混沌とする社会の中で心まで合理的にならないために。

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建築ピアノ

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ピアノ曲線1.5を制作する時から自分のピアノスタイル(作曲、演奏、アレンジ)を建築ピアノという風に定義づけしました。建築がピアノと組み合わさるきっかけは、以前からヨーロッパの建築(A・ガウディ氏を中心に)や安藤忠雄氏の建築物に非常に興味があって、それについて様々な思いを馳せているうちに、これは音楽にそれもピアノに通じるものがあるのではないのかなと思えて来た事に端を発しています。

ピアノ・フォルテという楽器は、オーケストラで使用する楽器のすべての音域を鳴らすことができます。つまり合理的な音域が最大の特徴であると言えます。そして鍵盤の配置も横一列にこれもまた合理的に等間隔に並んでいます。付け加えて鍵盤の並ぶ外観は美しいシンメントリーになっています。

一方、音はといえば、打鍵後にその音(同じ音)を一切コントロール出来なくなります。離鍵して止めるか、減衰をそのまま待つか。

ピアノの低音を建築する時の土台とし、その上のコード(和音)を建築物の中で生活する人、もしくは美術館などの場合、それが展示物にも相当すると考えますが、要するに、内容物として、そしてハーモニーの上の音域でメロディーを奏でるものを建築物のその形体美、またはそれ自体(建築物)の存在価値であるという風に位置づけた時に非常に腑に落ちてしまったわけです。

唄があるピアノ曲の場合、建築物がorganicな側面を強くするということも同時に強く感じられました。まさに、建築物の中で人が歌を唄う行為が、その建築物にそれ自体とは別の価値、意味を与える事になるからです。

単純化して考えると、ピアノの低音域で土台をしっかりと鳴らし(ハーモニーの基礎)、その上にコードという柱を建てその上にメロディーという装飾を施し、そして土台と、柱に支えられた天井、外壁の間に出来上がる空間の中に人が入り、生命を根底とした表現行為を行う様子がとても人間らしく(他の動物とは決定的に違う)思えて神秘的にも思えてきます。

またピアノを基本とした時のアレンジにおいて、まず考えることは、ピアノでいかに空間を作れるかということです。逆に考えるならば、いかに音が鳴っていない音域を作れるかということになると思います。余白の美学にも通じると考えます。

建築においても、いかに美しい空間を作り出せるかがその建築物に価値があるかどうかの一つの基準になっていると思います。光をどれだけ取り込めて、かつ空間の広がりを十分に感じることができ、その空間の中でどれだけイマジネーションできるかどうか。

ピアノでいうのなら、倍音が鳴る余白を作り、音と音の隙間の余白にどれだけ自分が入って行けるかが、ひとつの楽しみ方なんではないかなと思っています。

つまり建築とピアノの音に共通していることは

「どれだけ想像できる余白があるかどうか」ではないのかなと考えます。

意図と偶然の隙間にできる余白または空間が心をわくわくさせてくれるような世界の入り口なのではないかなとも考えることができます。

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未来が原始を獲得するノイズ

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メロディーをきちんと考えようと。つまりは作曲の基本に立ち返ろうということです。

作曲の方法としては、即興、ノイズ、リズム、コードからなど色々あります。どの方法も音楽であるし、だから可能性があると思うのですが、やはり基本はメロディーなんではないかなと最近よく意識します。

メロディーだけで成り立つ音楽。その力。

メロディー=音程(ピッチ)+リズム(揺れ+サステイン?)

メロディー以外の余計な部分を全部削ぎ落とすと、その曲はその曲であることができるのかと、ふと思います。

人がまるで骨だけの状態になった時に、その人として認識されるものかと。

逆に考えて、メロディーにその曲をその曲としてたらしめるものが存在するならば、他のハーモニーやアンサンブルが加わっても、その曲の芯は揺るがないのではないかなと思います。アンサンブルに左右されないメロディー。

その事とはまた少し違いますが、いつかのNHKで放送していたソリトンSIDE B(司会が高野寛氏と緒川たまき氏だった!)にゲストで出演していた坂本龍一氏がちょうどスウィートリベンジを作り終えた時の頃を振り返って、メロディーのことについて話していました。

「音符の、いわゆるおたまじゃくしの上がり下がりだけがメロディアスかというと、実はそれだけじゃなくて、ノイズがメロディアスな時もありますね」(教授だから言える発言ともとれますが)

このことからイメージを広げると、アフリカの打楽器を現地の人が叩いているのを聴くと、メロディアスに聴こえる時があるということも坂本氏の発言に通ずると思います。

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音楽の基本はリズムにあると、もしくはリズムがないと音楽として成立しないと「音楽の基礎」に書かれてある通り、まさにメロディーの基本はピッチよりもリズムにあると認識できます。これは単純に音符の長さや拍子に縛られる事ではないと考えています。

時間軸を失くした音楽いわゆる小節線を規定しない音楽でぐっとくる音楽もあるんではないかなと。たいていはリズムがその曲を支配しますが、それとは逆でメロディーがリズムをコントロールする音楽。

揺れる音楽。

原始的な音楽はそれに近かったんではないかなと推測しています。シーケンサーのクリック登場以来、リズムに支配された音楽がいつのまにか全体を支配しているような感覚があります。それはそれでグッとくるグルーヴではありますが、メロディーをないがしろにしてはだめなんじゃないかなと。

メロディーをきちんと考えて、そこからそれを崩す、壊す作業をするべきなんじゃないかなと思うわけです。今流行のグリッチノイズなんかを多用しているアーティストの中で、メロディーをきちんと書ける上で、あえてそれを崩しているアーティストの曲はやはり他と違う雰囲気があります。

ノイズに隠された微小なメロディーの断片。

それが時間軸に縛られず揺れる時、グッときそうな予感がしています。未来が原始を獲得するというか。

そんなことを思ったわけです。

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映像休符

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全休符や四分休符などとは違う長さで、かつ頭の中で形作られる映像がながれる時間だけ、楽器演奏を休むことを表す休符を「映像休符」と定義しました。

cappuccinoの曲の「コバルト」のintroの後半部分にピアノの演奏が休むところがあります。その休符は上記の映像休符であると最近ようやく気が付きました。

その箇所でピアノの演奏が止まると、頭の中で主人公が丘の上に上がり、群青色の大海原が眼前に開けるという映像が毎回流れます。その一連の描写が終わるまで演奏を休むことを映像休符は意味します。

映像休符は主演者の脳裏から再生される映像であるため、完全に主観的な長さの休符であることも意味します。このことはアンサンブルでの困難さを断定することになります。

しかし、映像休符として主演者の頭の中にある映像が別の媒体に収められ、それがプロジェクターなどの装置によってスクリーンやモニターディスプレイに映し出されるのなら、それは瞬時に客観的な意味合いを獲得し、音楽的な休符と同じく断定的な「長さ」になります。


映像休符に演奏のひとつの可能性があるとするのなら、今後それを試行錯誤していければと思う次第です。


The possibility of music is not shallow at all than we think.

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