2007-04-25

書簡 monochrome 

コラボトン 対談 

古溝真一郎×建水歩星

E-MAILによる往復書簡 2006/10/1

(PCの故障のため以下の部分しかバックアップをとってませんでした(泣)今つづきを探し中です。どこかにある…。古溝さんとは一度monochromeというユニットを組んで詩と音楽のコラボレーションでのライブをやらせてもらいました。僕にとっては本当に刺激的で、こういう表現を行える事自体に至福の喜びを感じます。古溝さんは雑誌「詩学」にも作品が何度も掲載されているすごい方です。ライブの時は、3曲ほぼぶっつけ本番だったのですが、曲が進むにつれて、表現の化学反応が起こっているのを肌で感じました。さて、以下対談です。)

建水:今回「コラボトン」に『失敗の子』が、少しだけ手を加えざるを得なかったものの(ノイズの問題など)、ライブ録音という形で収録できたことに感謝しています。それと同時にポエムリーディングという形式の表現のおもしろさを改めて感じたわけですが、古溝さんは「詩を声に出して読む」ということをどのように捉えていますか?

古溝:たぶん「音楽という表現をどのように捉えていますか?」ぐらいに難しい質問なので、うっかりちゃんと答えようとすると最低2万字は必要になると思う(笑)。なので、つらつらと思いついたことを少し書きます。

手短に黙読と朗読の違いをいくつか考えたいけれど、まず情報量は両者でどう違うか。黙読の場合、五感でいうなら視覚情報だけだと言っていい。もちろん読むことで他の感覚を喚起されることはあるが、まず与えられているのは、文字の形や配置くらい(紙の質感、匂いなどもあるにはある)。対して朗読の方はというと、読む者の表情・身体、声質、読み方など、ことばの意味以外のものが与えられている。単純に考えれば、朗読の方が読者に与えられる情報は多いといえるだろう。ただし、情報が受け手にどう作用するかを考えると、少し違ってくる。

実際に詩を黙読してみれば分かるけれど、一行を読んで次の行へと読みすすめていくとき、前の行あるいは前の文字は視界からは遠ざかりながらも頭の裏側に強烈に残っている。あるいは読みすすめながら、前の行へ戻り実際に読み直すこともできる。これは朗読だとそうはいかない。声が次々と発せられるなかで、以前の声は瞬間に消えてしまう。消えずに頭の裏側に響きつづけることもあるが、文字のような強烈な印象は残さず、常にその瞬間届く声に耳を澄まさなければ意味を取ることも難しい。そう考えると朗読よりも黙読の方が、より深くことばひとつに込められたもの(つまり情報)を受け取れるともいえる。

ところで、黙読もまたひとつの声なき朗読といえる。読者は自分が最も適していると考える仕方で、詩を頭の中で朗読しているはずだからだ。そうだとすれば、他人の朗読をきくというのは、自分の内側の朗読者との違いをきくということでもある。素晴らしい朗読者とは、それをきく人々の内側にいる朗読者といかに違っていても、それこそが最も適していると思わせるような朗読をする人のことだともいえる。

根本的なことをいうなら、はじめの質問にはひとつの先入観があるかもしれない。「詩を声に出して読む」という表現方法は、「詩を文字にして書く」ということと並列にあるものなのだ。つまり「書いた詩をわざわざ声に出して読む」ということが朗読なのではなく、生まれた詩を「文字にするか」あるいは「声に出すか」という違いなのだ。それは映画と小説のようにまったく違うことのようでもあり、同じく映画と小説のようにほとんど同じものだといってもいい。そしてそれぞれ固有に面白いものなのだと思う。

建水:最初の問いかけから大砲を打ってしまった感があると反省しています(笑)いや、でも最初に伺いたかった質問でしたので、あながち不本意ではないです。

黙読と朗読の情報量の違いはおっしゃるとおり違いますね。音を関連させて考えると、黙読と朗読のそれは体の内に響くか、体外で響くかで違い、どういう経路をたどって脳に情報が伝達されるかでその後の情報処理の仕方が違ってくると思います。

例えばピアノを使って作曲する時、コード(和音)を弾きながらメロディーも同時に弾くのと、和音を弾きながらメロディーを頭の中でだけ鳴らす(弾く)やり方と似ていると思うのですが、前者は脳に伝わるまでに何かしらの不純物が付着するし、後者は不純物が付かない抽象性を保ったままの状態で伝達されると思います。

古溝さんが言われた黙読に関してのことで「前の行あるいは前の文字は視界からは遠ざかりながらも頭の裏側に強烈に残っている。」というのは、その言葉に付加されるであろう表情や声の強さ、音質などの要素が稀薄なまま脳が認識している状態だと思います。

言葉を声に出して読むと実際の音を耳で聴いてしまうことから、その言葉の状況が文脈においてある意味限定されると思いますが、それだけにリアルなもの(現実感)が増すのではないかなとも思います。その点に関して「素晴らしい朗読者とは、それをきく人々の内側にいる朗読者といかに違っていても、それこそが最も適していると思わせるような朗読をする人のことだともいえる。」ということを考えると、他人の朗読=声によって自分の中の現実感を呼び覚ましてくれるとも考えられて興味深いことがらなんですが…。「生まれた詩を「文字にするか」あるいは「声に出すか」という違い」だけであって本質的に同一のものであるということは納得できましたが、ただ、コラボトンに収録されている『失敗の子』のように朗読に音楽それもテンポや展開をある程度意識したものが付加されると、文字か声かの範疇を超えた別のものになると思います。それは歌でもなく、朗読でもない。では一体何なのかということなんですが。

それはさておいて(笑)、『失敗の子』の詩について少し伺いたいのですが。一番最初にこの詩を見せていただいた時の印象なんですが、「祝福」と文末の「きれい」という二つの言葉が妙に気になって、で文末の「きれい」のうしろに「つぶやく」という言葉が来ていることがますます気になりました。まだあと少し何か言いたそうな余韻があるんですね。僕が勝手に思っていることなんですが(笑)。『失敗の子』に関するエピソードや背景、その時の心情などがあれば教えていただきたいのですが。

(実際は対談はこの先続いていくのですが、本当に残念です。(泣)

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2007-04-12

挿絵

-バンド『にく』のジョウジ氏との対談-
'06 8月30日(火)とあるカフェにて和やかな雰囲気の中行なわれました。

以下
建水:T
ジョウジ:J

T「えーと、今回はchain rainでのコラボということで、作った時のエピソードがあれば聞きたいのですが」
J「めっちゃ覚えてるよ。あのね女の子にフラレて帰ってきた時に泣きながらギター弾いてたらできた」
T「そうなんですか!?初耳ですね!(笑)衝撃的です」
J「でも歌詞はその時は別やったよ。曲だけが出来て…なんかそういう時の方ができるかな…」
T「ある意味気持ちが高ぶってるんですかね?」
J「わからへん。でも、俺なんでこんな時に曲作ってるんやろと思ってすごいへこむよ。そんな時くらい音楽せんでいいやろとか思って(笑)。まあめったにない状況やけど」
T「なるほど、そういう状況でメロディーが生まれたんですね」
J「歌詞ついたのは、だいぶ後やけどなあ。」
T「詩のイメージと言うのは?」
J「出だしの一行が、一番最初から付いてて」
T「『ホワイト真っ白な...』の所だけが?」
J「そうそれと『chain rain』と言うところまでが一行できてて、そこから後が全然出てこなかって、しばらくほったらかしになってて」
T「曲を寝かせてたんですか?」
J「いや、寝かせてたんじゃなくて、歌詞が上手くのらなかったらほったらかしにするんやわ。またしばらくしてからやってみようと思って、書き出してやるから。これくらいやったらいいかなと思って」
T「最初の一行ができてから残りの部分が出来るまでの時間と言うのはどのくらいなんですか?」
J「この曲は割りと早かったんじゃないかな。2,3ヶ月…」
T「けっこう長いじゃないですか!(笑)でも割と早いというのは他のにくさんでの曲というのは」
J「『ルアンとジョアン』というのは曲ができてから、一年か二年くらいかかったんじゃないかな。はじめ全然違う歌詞がついてて、上手く日本語のってないなと思って、書き直して…」
T「じゃあ、完成するまでの道のりが長いですね。」
J「あれは長い(笑)」
T「コラボトンのchain rainのアレンジを聴いてみて感想と言うか、違和感というか何かありますか?」
J「なんやろ、人がフラレた曲をこんな楽しくやってくれて、ありがたいというか(笑)」
T「そのことを僕が知ってたら明らかに変わってましたよ、アレンジが(笑)」
J「いや、俺はこのアレンジの方がいいけどね。楽しい方がいい。泥くさい曲やったらいややったなあ。」
T「逆にその事実を知らなかったからよかったというのもありますね。」
J「うん」
T「でもにくさんの音と比べると電子的になり過ぎているというのもあるんですが」
J「いやいや、十分。コーラスも付いてるし(笑)」
T「色々と付け加えたいというか、そういうのありますね」
J「いい感じ(笑)」 

T「にく」のバンドのことを伺いたいのですが?一番新しい音源の『ひなたとルーシー』」
J「ルーシーじゃない(笑)シーシー」
T「(笑)」
J「これはルーシー(ギター&ヴォーカル)がいて、今出来ることっていうのが多分こんな感じかなって。…これしかできんという感じ。」
T「『毒ガス』ってタイトルの曲が非常に気になるんですが?タイトルの付け方で気にかけてることって何かありますか?」
J「う~ん、なんとなく覚えやすいようには付けるかな。あんまり複雑にしたら覚えにくいから。『ひなた』も『シーシー』も初め違う曲名があったんやけど、バンドの中で何やる?って言った時に「じゃあシーシー」とかになって、バンドの中で勝手に呼び名が定着して、じゃあそれをそのまま曲名にしちゃおうと」
T「意図的じゃなくてなるべくしてなったような感じですね。」
J「そうなんかな」
T「あと挿絵がとても気になるんですが。何か意図的なことがあるのかなと」
J「この時は絵を描きたい気分やったから」
T「衝動的に」
J「それとみちる(ドラム&コーラス)が描かないと言ったから、それじゃあ描くわって言って」
T「いつもみちるさんが描いてるんです?」
J「そう、いつもは任せる。こういう風にしてって。今回は与えたテーマが難しかったみたいで。あと忙しかったのもあって」
T「この絵は僕には非常にツボなんですが(笑)」
J「何か描こうと思うとダメになるよ。こういうので描こうと始めに思うと、よう描かん。できるだけ何も考えていない時かな」
T「今までに描いた作品も先に何も決めずに?」
J「う~ん」
T「それだけじゃない(笑)そういう引き出しだけじゃないと」
J「分からないけど。こういう絵は二度と描けんね」
T「即興みないな感じなんですかね」
J「絵は即興かな、どちらかというと」
T「音楽を聴けば、ジョージさんの絵に納得する部分が大いにありますよ。通じているというか。関連性があるというか」
J「小さい頃、漫画家になりたかったからね」
T「実は僕も同じで」
J「そうやろ(笑)漫画家は憧れの職業やからね。でもね、最近家を掃除してたら小学校の5年の時の文集が出てきて、その中で将来の夢を書いてて、漫画家か漁師になりたいと。
でも漫画家になろうとしたら、「僕は絵が下手だし、話を考えて他の人に絵を描いてもらってたらなんとかなるかな。でも話が考え付かなかったらどうにもならないので漫画家は無理だと思います」と、それで漁師の方は「多くても10匹くらいしか釣れないからこっちも無理だと思います」と。全部自分の夢を否定して終わってる。(笑)小学校5年でちょっとショックやったなあ(笑)」

T「でも小学校5年である意味現実を見据えてるじゃないですか(笑)」
J「それがchain rainの中の『先をよむ頭で』やで」
T「なるほど、そこにつながるんですか」
J「そう(笑)悪いことばっかり考えてしまうという」
T「やはり作者と作品の一貫性が出てきますね。挿絵があると曲がその絵を説明するための役割を担ってくれて、世界観を広げてくれるというのはありますね。」

T「ところで、ジョージさんの弾くベースは裏メロを意識しているように思うのですが?」
J「それはある。裏メロというか、そういう風になるね。3人でやってる時が多いから、どうしてもベースが何かせんと思う」
T「聴いていて思うのは、ハーモニーの土台という意味もあるんですが、面白いところでベースが動いているなと。裏メロでリフがあって…独特だなと」
J「うん。音数が多くならんように意識してるね。シンプルにまとめたい」
T「ひとつのメロディーやひとつの音色なんかで曲を引張って行っている様な印象があるんですが」
J「流れが悪くならないように一番気をつけてるかな。とっかえひっかえした曲よりもやっぱり流れを意識した曲。」
T「流れというのは縦の流れではなく横の流れですよね?」
J「うん。横の流れ」
T「共感できますね。ライブを聴いてて思いました。」
J「あんまり、ややこしくならんようにしたい。ごちゃごちゃしててもいいんやけどね、『眠れないポリー』とかものすごくごちゃごちゃしてるでしょ?」
T「でもライブで聴いたことがないので…」
J「音源はどっちかっていうとごちゃごちゃしててもいいかなと思うんやけど」
T「ミックスとかでバランスとれますもんね」
J「そう」
T「ライブと音源というのはまったく別で考えてるんですか?」
J「ライブで音源が再現できればいいんやけどね。なかなか難しいね。メンバーおらんし、人数が足りへん(笑)」
T「なるほど(笑)」

T「今まで影響を受けたアーティストについて聞いてもいいですか?」
J「一番好きなのは間違いなくXTC。やっぱりバランスがいい。音のクオリティもすごく高いし」
T「そのバランスというのは?」
J「バンドとしてのバランス。オリジナルの時のメンバーの時までしか良くない。ドラムが抜けてからあんまり好きじゃないかな。もちろんいい曲なんだけど、何か違う気がする。」
T「バランスというのが気になりますね」
J「難しいところなんだけど...。一番好きなアルバムが5枚目の『English Settlement』(1982年)というんだけど、今までの感じとは違って、アコースティックなものを絡めてきだして、ライブみたいなテンションの高さもあるし、音の作りこみ具合が今までと桁外れにすごい。多分バンドが一番乗ってる時やと思うんやけど。演奏が特に。アーティストとして一番のってる時で、バンドとしての熟成度も高くて、そういう意味でいい条件が全部重なってできたいい作品。まさに絶妙なバランス。」
T「技術的なことは当然なんだけど、気持ちが重要だと」
J「バンドやからね」
T「当然のことでした(汗)」

T「詩と曲だとどちらが先にできますか?」
J「だいたい曲が先かな。詩だけが残っててだいたいそのテーマに合うようなので曲が出来た時には、パッと合えば先に出来た詩をちょっとずつ変えながら言葉尻を合わせながらできる時もあるけど」
T「それは詩が前もって出来ている時で、曲を書く時に詩から先に書く時はほぼないんですか?」
J「ないね(笑)」
T「言い切れると(笑)。僕はほとんどの場合は詩からなんですが。ギターでメロディー作るんですか?リフっぽく」
J「色々(笑)。コード探してるうちに」
T「鼻唄でメロディー唄ったり」
J「うん」
T「バンドでアレンジ決めるじゃないですか?その時ってデモテープ渡してメンバーに考えてもらうという感じですか?」
J「うん。思いついてる時、こうやってと言う時もあるけど」
T「その時の曲にもよると」
J「そうやね」

T「この音源(になたとシーシー)の詩も全部音(日本語の発音)ありきで先行して作るんですか?それにしては意味が通っていますね」
J「意味を持たしてしまうんだよね...」
T「理想は意味がないのが理想?」
J「意味を持たすといじけたような歌詞になってしまう。うじうじしているような感じにはしたくないなと」
T「僕がいつも思うのはシュルレアリスムにすごい影響されていると感じてるんですが、実際伺うとそうではないと(笑)。普段は結びつかない言葉が文章として結びついているのが面白いし、詩としての魅力を感じますね。読んでいるとふらっとかわされるというか…。終止形がない音楽のような。本当は「ある」一行が後で消したような感じがして。読み過ぎですか?」
J「読みすぎ(笑)まあいいねんけどね」

T「最後の質問なんですが、芸術(表現)についてとても意識しているように思うのですが。どうですか?」
J「ううん。あんまり」
T「僕が勝手にイメージを持ってるだけなんですね」
J「うん(笑)」
T「でも音に出てるじゃないですか?」
J「嘘!?(笑)出てる?そうなんかなあ」
T「上手さだけを追求してるんじゃないというのが伝わるというか…」
J「それはそうかもしれん。上手くはなりたいんやけど」
T「ものすごく表現というのに重きをおいてやってるのかなと。寡黙だからあんまり話してくれませんが(笑)」
J「寡黙じゃないで、ようしゃべるよ(笑)。でもいい曲を書きたいというのはすっとあるけどね」
T「いい曲というのは?」
J「自分の好きな曲。自己満足がかなり大きいかなと」
T「完全な自己満足なんですか?」
J「いや~多分違うと思うけど。そうやったらいいんやけどね(笑)。自分の好きな音楽やってる人に良いって言われたいな。自分が好きになったバンドの人に好きって言われたいな。嫌いな人には、嫌いというかあんまり…。なかなかそれは難しいんやけどね。考えてできることじゃないしね。」
T「そうですね。にくさんの音は自己満足に思えないけど、そういう面もあるんですね。」
J「めちゃめちゃあると思う。自分の音楽よく聴くから(笑)。曲を作ってるときは100%自己満足だよ」
T「でもそれって言うのは、もっと深く考えると、曲作りの最中は自分を客観的に捉えた上で満足させようとしているから、完全な自己満足とはまた違うと思うのですが。無責任にやってるんじゃなくて、自分を一人のお客さんとして考えていると」
J「それはある。こだわりはあるよ、でも人に伝わるかどうかはまた別の問題だから。もちろん音楽はやっぱり人に聴いてもらうから無責任にはしたくないなあ。」
T「ジャケットに関しても?」
J「きれいにできてるよ(笑)。ジャケット作るのは楽しいよ。おもしろい。」
T「挿絵を見ていると、絵を描いている時の楽しさが伝わってきますね」
J「その時はすごい楽しく描いてた気がする(笑)」
T「今度挿絵頼んでいいですか?」
J「え!こんなの描かれへんて(笑)。思いっきりがいるからね、描く時って。迷ったらおしまいじゃん」
T「いつかオファーします(笑)」

『にく』
ジョウジ(bass&vo.)、ミチル(drum&cho.)、ルーシー(guitar&vo.)
niku bbs / http://8429.teacup.com/yopparider/bbs

主な作品『眠れないポリー』『ruan&polly++』『行方/マーガレット』『ひなたとシーシー』など

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2007-04-11

カタリベ

コラボトンに参加してくれたgpsy MoL氏との対談です。'06 9月某日。E-mailでの往復書簡という形式で行なわれました。

建水:ムラノカタリベをはじめとして一連のnanoloop1.2を使った楽曲はある種、抜き打ち的なレコーディングでしたね(笑)MoLさんがシンセを僕がnanoloop1.2でパターンを前もっていくつか作ってそれをレコーディング中にリアルタイムでエディットさせていくという、今までやったことがない方法で新鮮でした。この即興的なレコーディングはどうでしたか?

MoL:そうですね(笑)まず、nanoloopという楽器が個性的だと思いました。ゲームボーイの音源を使用しているということで、良い意味で洗練されておらずポップスに使われない音色であり、新鮮さを感じました。そして、即興的なレコーディングは、予め音楽の構成を考えなかったため、演奏者の直感的な部分が出たような気がしました。

建水:nanoloopはゲームボーイの音源チップに直接アクセスしてそれをエディットできるおもしろいソフトなので興味があって案の定衝動買いした一品です(笑)即興は直感的な部分とあと引き出しがそのまんま出ると思うので、音楽的に忠実と言えばそうとも言えますね。しかし「ムラノカタリベ」の一番不思議なところは、後半でMoLさんの弾くパッド音とnanoloopのパターンが打ち合わせたわけではないのに完全にタイミングが合う所。決め事したんじゃないかと疑われても仕方ないくらい息が合ってる(笑)直感というよりもシンクロニシティ、共時性に近いものが発生したんじゃないかなと勝手に思ってるんですが。シンクロニシティについては何かありますか?

MoL:はい、nanoloopはとても面白い楽器だと思います。音色やリズムパターンの選択と組合わせが無制限な現在の音楽シーンで、制限されたものに逆に無限の可能性を感じる部分もあります。はい、「ムラノカタリベ」の後半の部分は本当に部長(建水)のフレーズとぴったりタイミングが合いました。シンクロニシティ=共時性ですね。これは、詳しくは分からないですが(笑)、空間を超えて幾つかの出来事が共鳴するという現象であったと思います。超自然的だとは思いますが、科学では解明できない物事の繋がりというのは存在すると思います。そういう意味で、シンクロニシティというのは、まだはっきりとは解明されていない世界のダイナミズムにおける可能性を感じさせてくれるものだと思います。今回のこの曲の作り方は前以って聞かされてはいなかったけれど、部長の意図する所を詳しく教えてください。

建水:nanoloopの音色をいくつかサンプリングしてシンセサイザー的に使うやり方も十分考えられるのですが、それではゲームボーイを操作するという面白さを欠いてしまうので避けたかった訳です。で、nanoloop1.2のシーケンサーは優先するとして、ある程度パターンを組んでそれを先にレコーディングしてから上モノを乗せてエディットするというやり方は、絶対的な時間軸いわゆるライブ感を無視することになるので、それはあまりにも一般的過ぎると。それなら、いっそいっせいのーでのリアルタイム録音にしてしまえば、失敗する確立は確かに大きいかもしれないけど、逆に面白いものが偶発的に生まれるかもしれないという確率に賭けたという訳です。そこにはnanoloopの手軽さ、コンパクト性、即席性なるものが強く関係しているように思えます。意図的というのはすべてのレコーディングにおいて効果的ではない時もありますよね?

MoL:なるほどー。予め設計されない偶発的な部分を重視されたんですね。確かにコラボしていて良い意味でアップセットしました(笑)。弾いてる本人たちも先が読めなくて、即時的に演奏するというスリルさが確実にあったと思います。確かにレコーディングでの意図的な部分というのは、もう常識的であり、作り方としては当たり前すぎると感じます。そこでは演奏する前に、既に常識的な枠組みに捕われており、アウトプットされたものもそのようなものしか出てこないと思います。ソフトを工夫するよりハードそのもの、音楽の作り方の枠組み、いやもっと言えば音楽とは何なのか?という最もラディカル(根本的)な部分に迫るというテーマも感じえました。いきなりですが、部長にとって音楽とは何ですか?(笑)

建水:音楽とは何ですか、超越的な問い(笑)ほんといきなり。むむむ...。よく思うのは抽象的、感覚的なものを自分の中から外に出して別の形にしたいとき、恐らくそれが表現の役割のひとつと言えると思うのですが、その別の形がたまたま僕にとっては形式的な音楽であったと。別に好きな水彩画でもいいのですが、今は音楽の方が表現の明瞭度が大きいのでそっちを優先的に選びます。「ムラノカタリベ」をレコーディングした時は、時間が進むにつれて徐々にイメージのヴェールがはがされるという感じだったので、原始的、感覚的なものが強かったですね。「村」は地球上のではなく地球に似た環境の中に存在する「村」のイメージです。これレコーディングの時言ってなかった気がする(汗)冒頭に戻って、音楽とは僕にとって要は感覚的なものを音として解釈する形式が音楽ということです。まわりくどいなあ(笑)ところで、MoLさんの新作はいつ頃製作にとりかかるんですか?

MoL:超越的な問いをいきなり出してすいません(汗笑)。部長にとっての音楽とは「抽象的、感覚的なものを音として解釈する形式」というものになるんですね。実は前々から気になっていた問いだったです(汗笑)。でもとても深遠な解であり、まだ十分には理解できていません。確かに、思考的なものは文字として他人に容易に伝えれますが、感覚・感情そのものを具体的に文字として伝えることは難しいように思えます。例えば人間の感情的な思いを「嬉しい、悲しい、楽しい」という文字として汲み取るのも可能ですが、音楽を通すとより血や温度が通ったものになる気もします。例はまだ他にたくさんあったり、限定してはいけないかもしれないけれど。新作は、新たな楽器、理想の音色を手に入れたら即時に開始したいという所存です。曖昧ですいません(笑)。

建水:曖昧(笑)機材待ちということなんですね。新しい機材が手に入ったら、手元にnanoloop2.0もあるのでまたぜひコラボレーションしましょう。今度は「村」から離れてどうでしょうか?

MoL:nanoloop2.0!よりバージョンアップしたGBですね(笑)。はい、こちらこそぜひまたコラボをお願いします。今度は「村」から離れる・・、良いですね。でも村から離れると言われた時は、ドキッとしました。村から離れ、次はどこへ向かいましょうか?

建水:「村」を離れ「街」に向かうというような...、だめかな?(汗)コラボトンのジャケットに描かれているのは村の一部という説があるけど、この村の周辺を高い上空から俯瞰すると街の存在が公になりそうな。そういえば、コラボトンのジャケットもMoLさんとコラボレーションしましたね。樹木と風力発電?の風車に井戸、そしてカプセル型の住居をMoLさんにやってもらいました。デザインする時のヒントは何かありましたか?

MoL:「村」を離れ、「街」へですね。視点を遠写しにしていくという感じなのですね。全貌が徐々に明らかになっていくような、そんな予感めいたものを感じました(笑)。はい、コラボトンのジャケットもまたコラボさせてもらいました。デザインのヒントはずばり『MOTHER』でした(笑)。シンプルでキャッチーという部長の絵のスタイルを自分なりに汲み取れたという気もしました。コラボの原意として「協働」という雰囲気も出せたらと思いました。共同体の中で、自分以外の他の方と共に働くというシンプルな喜びもあったと思います。コラボというと、予定調和的なものへのアンチという部分もあったのでしょうか?

建水:予定調和をまったく受け入れていないのではなくて、時に予定調和であった時の方がバランスがとれて結果的には納得いくものができる場合もありますね。ただ、nanoloop1.2のコラボ曲は予定調和になると面白くなくなる自信は十分にありました(笑)それからジャケットも初めからほとんどの世界観を決めるのではなく、まず各要素=部品を作ることによってそれらから全体を作っていくという方法が面白いのではないのかなとも考えていました。デザインのヒントが『MOTHER』というのは分かる気がします。(笑)僕の意図したものはファミコンの世界観つまりドット絵だったからです。TVゲームがヴァーチャルリアリティとしてではなく、TVゲームが純粋にTVゲームとして成り立っていた80年代のファミコン世代にコラボトンはぜひ聴いてもらいたいと思います。

MoL:予定調和にならない面白さというのはあるかもしれませんね。予定は予定で、本人もフラットにしておいた方が面白い部分もありますね(笑)。スタジオジブリの宮崎駿監督が、「もののけ姫」を作る時にも、単純な敵対味方という構図は真の姿ではなく、大災害のようなものは本人たちも意図しない方向からやってくるものであるということを発言されておられました。そのことにリアルさを感じ、また、物語性として深みを覚えました。全体の構図を決めてからではなく、細部の部分から全体を作るのは面白いですね。TVゲームが純粋にTVゲームとして成り立っていた80年代、そういうテーマもあるのですね。そういえば、収録曲の中にも80年代フォークのような曲があったと思います。そういった側面を描いたのは、テーマとして何かを意図されたのでしょうか?

建水:コラボトンに収録されているポツリやエレファントマンは僕にとってはフォークソングなんですが、80年代的なものとの関連性はないです。結果的にそうなったというのはあるかもしれませんが...。全体と部分という観点から考えると、コラボトンは部分を先行させて、全体を最初に決めなかったと言えます。内容がジャンルレスであり、またコラボーレーションを主としているため、企画性が先行して特殊なものになるというのは前以て分かっていたのですが、全く統一感のないものにはしたくなかった。それで統一感をどこで出すかというのが作品集として公に出すためのひとつの重要な要素としてあったのですが、全楽曲に自分が絡むことと各音色、そしてジャケットなどの視覚的なものを強めることによって、自然と各楽曲の結びつきが強くなったと思います。

nanoloop1.2を使った3曲はコラボトンの中でも異質なのは間違いないですが、以外にも「ムラノカタリベ」なんかがコラボトンの漠然としたイメージを牽引しているような気がします。「村」というイメージが小さな共同体を喚起させ、それが等身大の環境の中でのコラボレーションへとつながっていくように感じるからかもしれません。そういうこともあって、「コラボトン」はプライベートな意味合いが強い作品と言えると思います。今後コラボトンの続編を作る時はプライベートなものになるかどうか分かりませんが、またMoLさんにオファー出しますよ(笑)。その時はよろしくです!

MoL:なるほど。コラボでジャンルレスだからどこかに統一的な概念を通したのですね。その試みに関しては一参加者としては明確には知らなかったけれど、結果的にそういう風に感じ得ました。「ムラノカタリベ」はなるほど。そういえば、曲名は部長の命名でした(笑)。たしかにコラボというイメージの小さな核になってる部分もあると思います。「村」というイメージは確かに共同体を想起させ得ます。現代社会では個人主義と核家族化が進み、町や村に既存していたコミュニティというものが崩壊してきていると思います。そこには独自の文化やシステムがあり、土地に根ざした安定的な人間の繋がりがあったように感じます。結果的には、新しい時代の人々はそこから脱却するという選択を自らした、ということになると思うのだけど(笑)。一長一短だと(笑)。ただ、長く続いたと思われる人の局地的で共同体的な生活はやはり何らかの大きな意味があり、そういう意味でノスタルジーを感じます。

コラボトンの企画に関して、僕個人は実験的な試みに関する幾つかの形態の一つだと
感じています。その意味で、結果は関係なく未知なる一歩であるようなそんな感覚を持っています。他のアーティストの方々とは直接お会いしていないケースもあるけれど、その精神性に敬意を感じ、一つの場で共に鳴れた事に喜びを感じます。コラボトンの続編企画の折は、こちらこそよろしくお願いします!

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