2015-09-20

作品の終わる寸前まで

Photo




9月6日


應典院にて「ザ・マイムアワー ボリューム エイト!」鑑賞してきました。
(※当日の様子は公式サイトに掲載されてます)




パントマイムの表現で色々な方々がソロであったり組み合わさったりして
ひとつ15分ほどの作品を順に発表していくオムニバス形式の作品




今年の6月に音楽を担当させていただいたikiwonomuの「かつての風景」に
出演されていた黒木さん、豊島さん、岡村さんが
この日参加されてました。




ホールに到着して誘導されている方に目をやると、
なんといいむろなおきさん!
この作品のはじまりはこういう切り口なのかあと思いつつ、
けれど今回が初めての鑑賞なのでどういう意図だろうかと考えつつ、
定刻になりいいむろさんの前説が始まりました。

受付でいただいたパンフレットに書かれてあった
いいむろなおきさんの言葉を一部抜粋




『僕がこのマイムアワーという厨房で「監修」していることは、
「こう料理しろ」とか「あの素材を使え」とか」、「この調味料で味付けしろ」
ってことではなく、「サヤインゲンのスジは丁寧に取ろう」とか
「この量は食べきれないんじゃない?」とか「お刺身定食って言ってるけど、
真ん中にあるこれハンバーグだよね」みたいなことです。』




なるほど




パントマイム、マイムについてほとんど知識がないし、
今までに見た数もほとんどなく、
けれど、演奏で参加させていただいた「かつての風景」での
「マイム」は自分の中でスタンダードなモノになっている。

この立ち位置にいる自分が今回の作品を観た時に、さてどういう風な
感覚を覚えるのかわくわくしながらプログラムがはじまりました。




全21演目


総勢22名(間違ってたらすいません。。。)

の方々による作品

ポップなモノからアートなものまで
目の前にないものを、まるであたかも存在しているかのように見せ
物語の中に自分もいるかのように、笑ったり、悲しんだり、
切なくなったり、ドキドキ、わくわくしたり
いつしか感情が揺さぶられます。


演目の中盤にはいいむろなおきさんの
~はしやすめのコーナー~があり、
手を使ったマイムを教えてくれる時間も




パントマイムというと、ピエロのように動いたり、
透明な壁を表現したり、エスカレーターなどが
思い浮かぶと思います。

けれど、「ザ・マイムアワー ボリューム エイト!」は
もっと現代的というか自由な発想で作られた作品であったように感じました。

作品に自分の心を自然と投影できる親近感がありました。




Doperu




豊島勇士さん、岡村渉さん、しげきけんいちさんによる
「ドッペルゲンガー」


ミニマルな作品

キャラクターの表情がなんとも

ロイ・アンダーソン監督の登場人物のように味があります






自分は素人なので詳細なことは分かりませんが、作品を演じる時間がたとえ短くても
マイムに要する高度な技術があること、何度も試行錯誤して考えられ、
登場人物が生き生きとしていた脚本を書くこと、それを表現しきるために
莫大な労力がかかったことは誰にでも伝わると思います。




演者の方のひとつひとつのしぐさに意味があり、
目の前にないはずの「モノ」がいつしか目の前にはっきりと存在していく

これはイスやテーブルなどの「モノ」だけにとどまらず、
演者の心の動きまでもマイムの表現を通して舞台上に投影させていきます

音楽を聴いてリスナーが遠くの風景を喚起するように、
しぐさによって観客は今まで見えなかった風景をすぐそこに認識できる

それはきっと5感を超える何かであると思う




黒木さんの描かれたマイム作品「かつての風景」を浮かべる

公演期間中「1時間を超える作品を作ることがどれだけ大変か」
と言われたいいむろさんの言葉に改めて納得する

そして「かつての風景」の音楽に
なぜ生演奏を必要としたのかが
分かったような気がしました。




Kaasanari




黒木さんの作品「重なり」は演者や各素材の配置、色彩が非常に印象的
ひとつの座標となる真っ赤な表紙の本
その周りでの時間の経過と感情の変化、風景の変化が起こる

作品の終わる寸前まで丁寧に描かれているので
演目が終わってから漂う余韻すら計算されているように思う

観客が作品からそれぞれにいくつかの意味を汲み取れる様は
フランス映画のような気もするし、その非断定性が神秘的であるので、
何度も鑑賞したくなる

個人的な希望でしかないけれど、願わくば今回の作品「重なり」を
映像作品として公式にリリースしていただきたいなと




「ザ・マイムアワー ボリューム エイト!」

どの料理もとても美味しかったです。

ごちそうさまでした。

次回も楽しみにしています。




歩星


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2015-05-29

砂がないのにすくって魅せる

tinörksのホームページでも告知していますが、
次回の演奏は6/19〜22まで、京都烏丸にある
劇場KAIKA(カイカ)にて、


『かつての風景』


というマイム作品とのコラボレーションになります。


Photo


この作品は、いいむろなおきマイムカンパニー、
ニットキャップシアターなどでも活躍されている
黒木夏海さんのユニット


『 「 』 ikiwonomu(いきをのむ)の 第1回公演になります。




2014年9月に岸和田市立自泉会館でのtinörksのライブを
見てくださっていて、その後、京都きんせ旅館での
『オードミュニカ』レコ発ライブも見に来てくださり、
その時に、今回のマイム作品での音楽の依頼をいただきました。


まさかtinörksが舞台で音楽を奏でる日が来るとは
思っていませんでしたので、とにかくうれしい気持ちと
縁というのは、目には見えないけれど
やっぱり存在しているなと改めて思う今日この頃。




マイム?とは何かについて、本やネットで色々と情報を収集中ですが、
先日、通し稽古を見させていただける機会がありまして、
そのほんのひとかけらですが、腑に落ちることがありました。


Katsute1
(左:菅原ゆうきさん 右:豊島勇士さん 前:黒木夏海さん)
(激写な一枚 表情が生きていること)


稽古の動画(画質が悪いカメラで申し訳ないのですが...)を撮影させていただいて、
編集して『かつての風景』の予告編を衝動的に作ったので、まずはそれをご覧ください。
(※もちろん公開の了承は得ていますのでご安心を)


【予告編】『かつての風景』




【Act】
岡村渉  菅原ゆうき (兵庫県立ピッコロ劇団)
豊島勇士   仲谷萌   黒木夏海

【Music】
tinörks

【Staff】
舞台監督:北方こだち 照明:根来直義 音響:森永キョロ




ひとまず

黒木さんのユニット
『 「 』 ikiwonomu(いきをのむ)


Ikiwonomu


のことを公式サイトから引用させていただきます。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

黒木夏海の個人ユニット。
マイム作品を発表します。

はじまる。つづけてゆきたい思い。終わりのないものへの覚悟。
一言目を発するために息を吸い、言葉が出ずに息をのむ。
心打たれる風景を見たときの、伝えたい、
しかし一言では言い表せないあの感覚をユニット名にしたくて、
このような名前になりました。

いきをのむ、と読みます。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




予告編はikiwonomuの言葉からはじまり、
出演者の 仲谷萌さんの後ろ姿へと続いていきます。

音楽はCD『オードミュニカ』の特典音源になっている
「空の余白」

「余白」というのがひとつのキーワードになっているような...




稽古風景を見てまず思ったのは、

「見えないものが見えてくるおもしろさ」

オカルト的(笑)なことではなくて、

「あ〜そういうことか!」とパズルのピースが合致していく、そうあの感覚です。


舞台作品というと、演劇やミュージカルをまず思い浮かべる人が
多数だと思います。中にはとても前衛的な作品も多々ありますね。

この『かつての風景』は、ガイド的な「セリフ」が
登場する時もありますが、作品の基本は言葉のない「無言劇」

誤解を恐れずに言うと、前衛的な世界観ではなくて、
日常の風景を基本にして物語は進んでいきます。

僕らの奏でるtinörksの音楽とマイムの表現が
まざりあいながら、見ている方はいつしか
セリフがないことに気がつかないで
登場人物のひとりになっているかもしれません。






マイム=パントマイムの意味は...




パントマイム(英語:pantomime)は、台詞ではなく
身体や表情で表現する演劇の形態。
黙劇(もくげき)、無言劇(むごんげき)とも呼ばれる。
(※wikiより)


古代ギリシャ語の、"panto"(すべてを)と "mimos"(模倣する、真似る)が
語源だそう。

また、調べると「マイム」の方がより演劇的なニュアンスを持っているみたいですね。

つまり舞台表現/舞台手法の意味で使う場合、
「マイム」はより近代的な、演劇の基本としての身体表現の技術を
指すことが多くなっていることもこちらのサイトで見つけたので、引用させていただきます。


それから出演者のひとり豊島勇士さんのBlog記事

「マイムってなんだ、あるいは今度出演する公演について」

とても読みやすく、わかりやすく、おもしろいのでぜひご覧ください。






マイム






身体や表情の動き、筋肉の微小な動き、視線だけで観客に

「目の前にないもの」を

「目の前にあるもの」として表現して見せる。

セリフで言ってしまえば済むことをあえて
それ以外の要素で伝えること。

それは、情報が洪水のようにあふれている世界では
決して原始的な表現手法ではなく、むしろ
洗練された表現になると思います。


言葉をかわさずに同じイメージを共有することは
マイムだけに限らず音楽やスポーツなど様々な場面で
体験できます。

それが洗練されればされるほど、情報の伝達速度が
早くなるという技術的な魅力よりも、
むしろ、




「見えないものを見ることができる」




という人間特有の「心の限りない世界」を知ったり、
ふれたりすることができる点にあると思います。


そしてそれは、日本人が昔から潜在意識に持っている
特有の美意識ともつながります。

以心伝心、茶道や華道の侘び寂び、枯山水、
飛躍すると廃墟の美しさなども含まれるかもしれませんが、
これらの表現は「在るもの」をあえて「欠けさせること」によって
本来は「在るであろう」ものを心の中に強調し、
それに果てしない何かを感じること「美」とします。


いつも必ず「ある」と思っていたことが、
「存在しなかった」場合、
それが「あった」時よりも、

「なくなった」時に感じる欠落感

それを意図的に生み出して、表現したいものをさらに強調すること

人の心はなぜかそこに魅力を感じるようです。




長々と書きましたが、とにもかくにも『かつての風景』のおもしろさを
素人の僕なりに少しでもみなさんにお伝えできればと思っています。

お楽しみに




歩星

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2015-03-17

・・・台風が、来る! 『カムサリ』

伊丹アイ・ホール
ニットキャップシアター第35回公演


『カムサリ』


鑑賞しました。


Flyer_a


舞台は8階建て、階ごと6部屋ある団地。

風の音が響いて
もうすぐ台風がこの団地にやってくるところから物語ははじまります。


「カムサリ」とは『古事記』にある言葉で
「神が去る」、つまり神様が死んでしまうことを意味します。

「イザナミ」が神去って(かむさって=死んで)、それを「イザナギ」が追かけるところから
はじまるのが黄泉平坂(よもつひらさか)のお話。

黄泉平坂(よもつひらさか)とは
⇒死者の住むあの世(黄泉)とこの世(現世)を分かつ境目にある場所


古事記に登場するエッセンスを取り入れつつ、
どこにでもいてそうな団地に住む人たちが
台風がやってくる日に繰り広げる物語。


演劇に関して専門ではないですが、作品がとても分かりやすく、
それでいてSF、サスペンス、アートな要素も散りばめられていて
あっという間の90分。

効果音は最小限の範囲での使用で、その他の音は
ほとんどの場面で演者が楽器(サックス、カホン、ウクレレ、
カリンバ、鍵盤ハーモニカ、ベース、その他たくさんの民族楽器)を演奏。

それぞれが演じる役のストーリー、時間軸が舞台上で同時に進行する
躍動感たるやまるで身体が奏でるオーケストラを聴いているようでした。


例えばその時間帯はメインとなる役にスポットライトが当てられてますが、
舞台の他の場所(ほんのり暗くなっている)では、他の登場人物のストーリーが
淡々と進んでいきます。

なおかつ、ある登場人物のセリフを違う役者の方が意図して話したり、
一方、他の登場人物のセリフや動作といつのまにか同期していたり(これがおもしろい!)
ということが、発生しながら、けれども、物語としては矛盾なく進んでいきます。

役者の方が、劇中の音楽を自ら演奏することにも関係していますが、
セリフと動作のリズムが、まさに音楽を奏でているように、畳み掛けるように
観客の鼓動に迫ってくるわけです。


舞台の構成上、もちろん観客のイメージ力を試される場面もいくつもあります。

役者の方の表現するセリフからその背景を想像したり、表情や言葉の余韻、間合いから
本当の気持ちを察したり、登場人物が見ているであろう風景をいっしょに追いかけてみたり。

これが劇ならではのおもしろさで、こちらが試されている所でもあると思います。

1から10をすべて劇中で説明するのではなく、
1から7までを表現して、あとの8、9、10はその瞬間瞬間で観客の想像力にゆだねられているということ。

つまり、目の前の舞台で繰り広げられている世界と、それを観ている自分の頭の中の世界を
行ったり来たりしながら物語を形作っていくこと。

これは決して演劇だけに限らず、すべての芸術作品に当てはまることだと
考えていますが、『カムサリ』はその面白さが十二分に体験できる作品であるとも
思いました。




台風が団地にやってきた日に、登場人物は「ここ」ではない場所に
行くわけですが、それは古代の日本人が持っていた「現世だけが世界」ではないという考えを
改めて教えてくれているような気がしました。

悪く言うとオカルト的な風にも捉えられると思いますが、
本質はそこではなくて、想像する世界の質感、実感をいかに感じることができるかということ。

言葉で何か表したり、身体で何かを表現したり、音楽で何かを奏でたり、
絵を描いて何かを彩ったり、何かを写真におさめたり。。。

すべての表現は、人が現実(目の前の世界)とは別に存在するであろう
世界に少しでも近づきたい(心を近づかせたい)行為の表れだと思います。

それらは得体の知れぬ衝動として僕らの体のどこかに潜んでいます。

そしてその衝動が何かによって振えたり、振るわせられたりした時に
僕らは形のない、けれども確かな実感を手に入れることができます。




『カムサリ』の神が去るその瞬間までに、その衝動が振えた時が
何回も訪れました。

もちろん人によってどこで衝動が振るわせられるかは分かりませんが、
今そこに「まさに違う世界が存在する」という実感は手に入れることができるはずです。

セリフや物語の展開の随所にとても丁寧に織り込まれた演出は
僕のような演劇鑑賞ど素人にとっては非常にありがたいとも感じました。

大阪での公演は終わっていますが、東京では4/9~4/12まで『座・高円寺1』にて
上演予定とのことです。


間口が広く、それでいて深海の深さほどアイデアが溢れている作品『カムサリ』

思ってもみない素晴らしい世界観を体験できるはずです。



建水




P.S

ちなみに『カムサリ』に出演されている黒木夏海さん演出、出演の
『 「 』 ikiwonomu (いきをのむ) 第1回公演


「かつての風景」


というマイム作品が6/19~6/22まで京都のKAIKAで予定されていますが、
なんとtinörksとして音楽を全編生演奏させていただきます。

どうぞお楽しみに。


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